あの冬の日、私は「直感」で自分の体を守った

この実話、体験の物語は、現在の医療システムの弱点を浮き彫りにしています。私は、この話をこの場でお話しすべきか迷いました。しかし、この物語はあなたと無関係ではありません。何故なら、あなたも私と同じこの医療システムのもとの「住人」だからです。

あれは、冬の寒さが骨にしみる夜でした。

クライアントとの会食を終え、私は軽い疲労と満足感を抱えて電車に乗りました。

窓際に立ち、流れる夜景をぼんやり眺めていたその時に突然、額から滝のような汗が吹き出し、

お腹を内側から鷲づかみにされたような激痛に襲われました。

「これはただ事じゃない」と直感した私は、次の駅で電車を降り、改札口脇にあった公衆電話へ。

震える手で119番を押し、救急車で小規模な個人の救急病院へ搬送されました。

すぐにレントゲンとCTを撮影。現れたのは大学から派遣されている若い医師でした。

彼は開口一番、「急性の腸閉塞です。今すぐ開腹手術が必要です」と緊張した声で私に告げました。

その言葉は“宣告”のように響き、頭が真っ白になりました。

しかし説明を聞くうち、私の中のもう一人が叫びました。「違う、まだ早い、何かが引っかかる」

私は思い切って言いました。「今すぐの手術は待ってもらえませんか?」

医師は「時間との勝負です」と難色を示したのに対して私は仕事柄、

持っていた医療知識と自覚症状で冷静に話し、ついに“朝まで様子を見る”ことで合意。

そして朝、痛みは引き、体調も回復していました。

それでも医師は、なおも「今日中に手術を」と強く主張し、「このままでは危険です」と強調しました。

それに対して私は丁寧に「かかりつけの病院があり、そこの消化器内科にかかりたい」

と伝えましたが押し問答になり、最終的にはレントゲンとCTの画像を借りて、その病院を後にしました。

ただし、「この行動は自己責任です。医師は一切の責任は負いません」と一筆書かされました。

そして、その帰りにかかりつけの病院に行き、事情を話し診察を受けました。

そこでの医師の診断はたった一言でした。「昨夜は大変だったようですね。

しかし、今診る限り問題はありません。手術の必要はありませんので、今日はお家でゆっくりしていてください」

その時、私は確信しました。

「患者はもっと賢くならなければならない」と。

私は運良く、一般の人より多少医療知識があり、何より自分の直感を信じることができました。

もしそうでなかったら? あの夜、ベッドではなく手術台にいたかもしれません。

この話をお伝えしたのは、医療システムが不完全であることを知っていただきたかったからです。

今回の医師は経験が浅く、少しパニックになっていたのかもしれません。

でも患者である私には十分な説明も、治療の選択肢も提示されませんでした。

この出来事は、医療における「情報の非対称性」という問題、

つまり患者と医療提供者の間に知識の格差があるという経済学的な課題を示しています。

医師の言うとおりにしていたら、切られていた。

“選べない医療”の怖さと、情報を持つものだけが守れる命

私の体験は、一見すると、一人の患者と一人の医師の判断のすれ違いに見えるかもしれません。

しかしその背景には、日本の医療が抱える根深い構造的な問題があります。

それは「情報の非対称性」に無自覚なまま進んできた医療体制をめぐる問題です。

医師と患者の間の、知識と経験の格差は当然としても、

それを制度的・文化的に「前提」とし、患者に受け身を強いることが問題なのです。

日本の医療はアクセスの良さや技術水準では世界的にも評価されていますが、

患者が情報を得て理解し、納得して選択するための「時間」「環境」「支援」は極めて乏しいのです。

あなたは透析導入の時に

・透析はどのようなものか?

・透析の様々な種類、機能的な側面

・透析によりどのような生活になるか?

・透析と仕事の関係

・健康上の変化と将来のリスク

・合併症に関する情報

・透析患者の死因

・透析と社会保障について

などの説明を受けたでしょうか?

透析導入とともに、即断や即決を求められて、疑問を挟む余地もなく治療方針が決まる。そこに患者が自ら判断する余地はほとんどありません。

仮に疑問を呈しても、この物語のように「責任は負えません」という言葉で封じられる構造が、いまだに存在しているのです。

つまり、日本の医療は「選ばせる仕組み」になっていないのです。患者にとって必要なのは、

知識だけではありません。

「情報を得る手段」

「理解を支える対話の時間」

「複数の選択肢にアクセスできる環境」

そして何より、「質問していい」という「文化」です。

私が感じたのは、医療システムが、患者を中心に据えてデザインされていないという現実でした。

医師が悪いのではありません。

彼らもまたシステムの中で効率を求められ、短い時間で多数の判断を下さざるを得ない状況に

置かれているのも事実です。

では、どうすればこの構造を変えられるのでしょうか?

この構造を変えるには、現時点では患者側がもっと情報を取りにいくしかありません。

医師に全てを委ねる時代はすでに終わっています。知識を持ち、選択し、時に「No(ノー)」と言えること。

その全てが自分自身の利益を守る手段となるのです。

この一件は、単なる偶然や幸運ではありません。

もし私が専門知識を持たず、異を唱える勇気もなければ、私は今頃手術後の影響でベッドにいたかもしれません。

この事実は、静かに、しかし強く、問いかけてきます。

―――「この国の医療は、誰のためにあるのですか?」

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